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キリスト信徒やまひでの心の窓

キリスト信徒やまひでの心の窓

「召天」という言葉

marie-marieさんのご質問
先日仲間内で話題になったのですが、仏教の場合人は死ぬと成仏、つまり仏になる、神様と仏は別物と答えられたのですが、キリスト教の場合天に召される、という表現でよろしいのですか?
天使になる、ということなのでしょうか・・・・
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亡くなった人への呼び方は、天に召される、「召天」と言う言葉が使われることが多いようです。「昇天」と書く人もいます。亡くなっても天使にはなりません。

聖書に書いてあることからいえば、死者は「よみ(黄泉、陰府)」という、死者が神様の裁きを待つ場所にとどまり、終末(世の終わり)が来ると、全員が復活して神様の裁きを受けると考えるのが、一番良いようです。
その時、正しい人は、永遠の命に入ります。正しくない人は、永遠の火に投げ込まれます。
「正しい人」とは、信者であることが前提で、神様の御心にかなった良い行いに励もうと志している人のことです。ただ信者かどうかを問わず、愛の行いに励んでいる人の心には、キリストがとどまっていると書いてある箇所もあります。

「黄泉(よみ)」を通らずに直接天に迎えられている人々もいます。イエスさまと一緒に十字架につけられた犯罪人がそうです。特別に清らかな人というわけでもありません。
「召天」という言葉は、直接に天に迎えられる思いが強いかなぁ。

ちなみに、ボク自身は、もし黄泉(よみ)という場所があるとすれば、黄泉にとどまっている人々に対して、再度キリストの福音にふれる機会が与えられると思います。それはキリストの福音に一度もふれたことのない人への配慮と、生前、拒んだ人に対して再度の機会が与えられるためです。ペトロの手紙1の3章19節前後から類推しています。
このあたりは、死んでみなければ、正確にはわからないようです。03/12/23




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